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広島地方裁判所 昭和61年(ソ)11号 決定

抗告人

甲野花子

右代理人弁護士

小笠豊

相手方

島崎朗

相手方

石川博也

主文

一  原決定を取り消す。

一  広島県東広島市西条町大字寺家七四一西条精神病院に臨み、別紙目録記載の物について検証する。

一  相手方らは、右検証物を検証期日に現場において提示せよ。

理由

一本件抗告の趣旨は主文と同旨であり、その理由は別紙記載のとおりである。

二当裁判所の判断

1  裁判所は、特定の証拠方法について、本来の証拠調べの時期を待つていたのではその証拠を使用することが困難となる事情(証拠保全の事由)があると認める場合には、本来の証拠調べの時期以前に証拠調べをなしうる(民事訴訟法三四三条)ものとされ、右事由は、申立てにおいて明らかにするとともに、これを疎明することを要する(同法三四五条)とされているところ、右事由の疎明は当該事案に即して具体的に主張され、かつ疎明されることを要すると解するのが相当であり、右の理は診療録等の改ざんのおそれを証拠保全の事由とする場合でも同様である。

これを敷衍するに、人は、自己に不利な記載を含む重要証拠を自ら有する場合に、これを任意にそのまま提出することを欲しないのが通常であるからといつた抽象的な改ざんのおそれでは足りず、当該医師に改ざんの前歴があるとか、当該医師が、患者側から診療上の問題点について説明を求められたにもかかわらず相当な理由なくこれを拒絶したとか、或いは前後矛盾ないし虚偽の説明をしたとか、その他ことさらに不誠実又は責任回避的な態度に終始したことなど、具体的な改ざんのおそれを一応推認させるに足る事実を疎明することを要するものというべきである。

2  そこで、本件について検討するに、〈証拠〉によれば次の事実が一応認められる。(なお、本件に関しては、さきに同一内容の申立てが東広島簡易裁判所になされたが、同裁判所において証拠保全の事由につき疎明不十分として却下され、さらに当庁において右決定に対する抗告が棄却されたことが当裁判所に顕著であるが、右疎甲号各証のうち、疎甲第四号証及び第五号証の一は本件申立てにおいて新たに追加されたものである。

(一)  抗告人が相手方らの所属する西条精神病院に入院した昭和六〇年五月以降その病状が急激に悪化したため、抗告人の家族が、相手方らに、抗告人に対する治療方法や病状悪化の理由を再三尋ねたのに対し、相手方らは何ら詳しい事情を説明しようとせず、逆に説明を求める抗告人の家族を叱りつけたり、さらには、入院中に抗告人の身体障害者等級が三級になつたことにかこつけて、「身体障害者手帳が三級になつたんだからいいじやあないか。」との発言をした。

(二)  抗告人の家族は、抗告人の入院中に右病院の看護婦らから再三「早くつれて帰つてよい病院へ入れてあげてください。」との忠告を受け、相手方らに抗告人の退院を申し入れたが、相手方らからは容易に退院の許可が出ず、結局昭和六〇年一二月末に外泊の許可が出て自宅へつれて帰つたのを機会に退院の手続を済ませた。

右各事実によれば、相手方らは、抗告人の家族から診療上の問題点について説明を求められたのに相当な理由なくこれを拒絶し、不誠実かつ責任回避的な態度に終始しており、右によれば、相手方らが抗告人に関する診療録等を改ざんするおそれがあると一応推認することができるから、証拠保全の事由について疎明があつたものといえる。

3  本件申立ては、証拠保全の他の要件についても欠けるところはない。

4  以上によれば、本件申立てはこれを認容すべきであり、右と異なる原決定は失当であるからこれを取り消すこととして、主文のとおり決定する。

(裁判長裁判官出嵜正清 裁判官内藤紘二 裁判官石井寛明)

抗告の理由

一、原決定は、その判断として、畔柳「医療事故訴訟の準備活動における問題点」や新堂「訴訟提起前におけるカルテ等の閲覧・謄写について」の見解は採用できないとし、伊藤「証拠保全手続きにおける診療録提出命令」が同旨の見解としている、ので右見解の誤りを指摘する。

伊藤は、「およそ医師たるもの、病院等の管理者たるものは、診療行為につき将来患者側から訴訟の相手方とされるおそれがあると、診療録の改ざん、偽造等を工作して訴訟対策上自己に不利益な記載を書き換えてしまうであろうなどといつた経験則は存在しない。医師の社会的地位からして公法上の規制に違反することの方が医師にとつて不利である」「まして訴訟提起前に早々と改ざん、偽造工作に着手することにより将来の訴訟対策をするようなことは、特別に当該医師の資質や改ざんなどの前歴、当該病院の保管体制等具体的事実に基づき、客観的に改ざん等のおそれありと認めるに足りる主張・疎明が必要であろう」としている。

まず右の主張の内、「医師の社会的地位からして公法上の規制に違反することの方が不利である。」から改ざんのおそれがないとする認識が重大な誤りである。

それは、殺人や窃盗等犯罪を犯せば、それぞれ死刑その他の重罰に処せられるから、社会的地位の高い者は、これらの犯罪を犯すはずがない、といつた実情を知らない空虚な認識でしかない。

脱税を犯せば、公法上の制裁が課せられるが、それにもかかわらず多くの医師が脱税をしている事実は周知のとおりであり、伊藤の社会的地位の高い医師が悪いことをするはずがない、といつた認識が事実に反するものであることは明らかである。

疎甲七、八号証には改ざんを認定された判決がいくつか列挙されているが、判決理由で改ざんが認定されるのは余程のケースであり、判決で認定されてはいないけれども本当は改ざんされたと思われるケースは山程あるといつてよい。

診療録は、医師が自分で作成したものであるから、他人に見せるに際しては清書しなおすといつた名目で、書き直されることはしばしばみられることであり、裁判所が証拠保全に行つた際、相手方医師が「今清書しなおしているからもう少しまつてくれ」、といつた例があつた程である。

カルテは、契約書など他人の手を経た文書と違い、医師が自分で作成したものであるから、他人の目にふれるに際し、清書しなおす等の名目で書き直されることはしばしばあり、弁護士会照会などで任意の提出を求めた場合、提出を拒否されたり、都合の悪い部分に手が加えられたりすることは日常的な出来事といつてよい程である。

二、次に伊藤の誤りは、「提訴前に早々と改ざん、偽造に着手することにより将来の訴訟対策をするようなことは」としている点である。

カルテの改ざんのおそれというのは、提訴前に将来の訴訟を予想して行われると限られるわけではない。

むしろ証拠保全をせずに、提訴してその後、カルテ等を乙号証として任意に提出を求めたり、弁護士会照会等で任意の提出を求めた場合、カルテに医師の過失、責任を根拠づける記載があるような場合、医師がそのカルテをそのままでは提出したくないと思うのは人情であり、医師がそのカルテ等をそのままの形で提出することは期待できない、といつてよい。

したがつて提訴前に予めカルテ等が現在どのように記載されているか保全する必要があるのであり、提訴前の証拠保全が認められている趣旨はそこにあるといつてよい。決して伊藤のいうように、提訴前に予め将来の提訴を予想してなされるカルテの改ざんだけを未然に防止しようとしているわけではない。

以上より、医療事故の訴訟を提起しようとする場合、提訴後にカルテの任意の提出を求めたのでは改ざんされるおそれが常にあるわけであり、予め提訴前の保全をしておく必要性が常にあるというべきである。

以上の理由、その他申立書で述べた理由により、証拠保全については、改ざんのおそれについての主張・疎明は抽象的な主張・疎明で十分と考えるべきである。

三、仮に、改ざんのおそれについて具体的な主張・疎明が必要と考えるとしても、本件においてはその疎明は十分である。

抗告人等に対して相手方医師らが、歩行困難、言語障害がおこつた原因について、医師として誠意の有る説明をしておらず、むしろ精神病患者だからということで抗告人をばかにし「身体障害者手帳が3級になつたんだからいいじやあないか」といつたふざけた責任回避的態度に終始している。伊藤のいう「申立人らの質問に対して診療の経過、死因等について説明を十分しなかつたとか、責任を回避するような態度を示したこと」という具体的な事情の疎明資料は十分に提出している(疎甲3〜5号証)。

それにもかかわらず、追加された疎明資料を含め、総合して検討しても、保全の必要性について疎明十分と解することはできない、とした原審の判断は、抗告人に不可能を強いるものであり、従来これより緩やかな疎明資料で証拠保全が認められてきた扱いにも反するものであり、保全の必要性についての具体的な疎明資料の評価を誤つたものといわざるを得ない。

このような解釈は、医療過誤事件において、国民の裁判を起こす権利を不当に侵害するものであり、提訴前の証拠保全の制度が認められている趣旨を没却するものである。

以上より早急に、原決定を取り消して証拠保全を実施して頂きたい。

目録

甲野花子に対する診療(昭和五六年から外来診療、昭和六〇年五月〜昭和六一年一月まで入院)に関する診療録、医師指示票、看護記録、心電図、諸検査票、保険診療報酬請求書控、その他右診療に関して作成された一切の書類。

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